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桶川ストーカー事件 警察 懲戒免職

桶川ストーカー事件がテレビ番組の影響で再び注目された。

事件の起きた1999年当時は、様々な要素がからんで世間は心を痛めた。
美人な女子大生が被害者であったり、ストーカーという認知されて間もない人間関係像、しかもこの事件は複数犯。

それから、10年以上がたち、わたしたちは過度な情報の洪水の中で、猟奇的な殺人であったり、信じられない人間関係の中に起きる痛ましい事件、というものに不感症のように、なれっこになってしまったかもしれない。

それでいてなお、この事件が人々の関心をあおるのか。


それは警察の不祥事だろう。


不祥事ではすまされない。この、桶川ストーカー事件において警察は、告訴状を被害届に改ざんするなどの信じがたい行為を行った。


簡単に言うと、告訴であれば、それを捜査機関は拒むことはできず、捜査を開始しなくてはならないが、被害届は、被害事実を報告するためのもので、それを警察が受け取っても捜査を開始するかどうかは警察次第、という決定的に大きな違いがある。


人は絶対性を求める。

それは安心を保障してくれるからだ。


どちらにしていいかわからない選択をせまられたとき、私たちは、その選択の根拠を探す。
間違ってはいないだろうか、後悔はしないだろうか、という不安とたたかうためだ。

その時、あなたは間違っていない、という後押しは非常にたのもしい。

例えばそれは、あるときは「神」という存在として私たちの選択をの正当性を保障してくれる。

日常的な社会生活を送るうえで、絶対性の最たるものは「法律」だ。

左側走行を規定することで事故を減らし、その法を破った者に被害を与えられたものは、その法によって、間違っていなかったことや、被害のその後を保障される。


そして、その法律の番人として存在するのが警察。


つまり、この、桶川ストーカー事件の、警察の対応によって私たちは、絶対性が、不能であることをつきつけられた。

だからこそ、わたしたちは憤り、失望する。それはどれだけの時を経ても、だ。



絶対性は幻想。

もちろん、それでは困る。

だれもが法を信用しなくなったら、日常は日常として存在しなくなる。事故や事件や犯罪であふれ、しかも、ボーダーとなる法がないのだから、もはやそれは、事故とも事件とも犯罪とも言えなくなってしまうのかもしれない。


とはいえそんなことはまずない。

法のような絶対性は、絶対者とともに我々より先に存在するものではない。

例えば、東京のエスカレーター。私たちは左側に寄る。
高い人口密度のなかで、中には急ぐ人もいて、足の不自由な人もいる。

追い越し通路を作ったのは、絶対者でなく、わたしたちの知恵だ。



絶対性への幻想はもう少し違った場所に現れる。


例えば、魔女狩りにも似た嫌煙。

健康はみなの権利である。喫煙は各人の自由である。

そこに健康増進「法」という絶対性を持ち込む。
すると、嫌煙家は大手を振って、なんの疑問もためらいもなく、喫煙者を糾弾することができる。
絶対性が味方だからだ。



例えば、人生に迷う。
圧倒的存在に、人生の指針を乞いたくなる。
それは宇宙のしくみを知る占い師かもしれないし、麻原かもしれない。


世界は複雑で、真理とは、その複雑な世界をシンプルに解き明かす目の荒いザルだ。
世界を小さく語るものは、絶対者にみえる。


インターネット上のあるキーワードには、何万、何十万、何百万、何千万件とはじき出されるデータがあって、私たちはグーグルによって、それを検索結果上位5件程度の情報としてうけとる。

そうやって、複雑さに耐えかねて絶対を欲する私たちはなだめすかされている。

とはいえ、何億件ものデータの背後に真理があるわけではない。



桶川ストーカー事件で、痛ましいのは、絶対性をくつがえされたわたしたちではない。

「警察の都合で」娘を失った、というのも違うだろう。

ただ単純に、娘を失ったこと。
ただ単純に、その後の人生を失ってしまったその人自身。

ひたすらに不条理でシンプルな悲しみがある。

真理も、複雑さも、何もない。










生活保護 妊娠

生活保護の受給中に妊娠したのだが、どうすればいいのでしょう?

そんな相談が「yahoo知恵袋」や「教えてgoo」にあるようだ。

社会保障その他の細かな仕組みは専門家、専門サイトにゆずるとして、自由に考えてみよう。

それらの相談に対する回答は、想像に難くなく、大方が批判的で、一部、良し悪しはともかくとして選択肢や情報を提供するものがあった。

批判にさらされるのも無理はない。
体をこわしたのか心を病んだのか、いずれにせよ、休むべき猶予の時間によろしくやって、汗水たらした人間の税金でメシを食っているのに、と言われてしまうだろう。

もちろん、あらゆる状況が考えられる。
心身を病んで生活保護を受け、その弱みに付け込んで、よってくる輩に…というストーリーもあるかもしれない。
(こういう場合、考えようによっては、弱者であることをテコに保護されることを極める、ということもでき…ないか)

生活保護を受給する、社会的に弱者であると認定される、ということが、どれだけ自尊心に影響を与えるのか、あるいは、困窮きわまること、どうやっても働きたくない、というのがどれだけ自尊心を圧倒するのか、わたしはわからない。

わたしはどうだろうか。
生き方を選ぼうとしていた時があった。
働かなくてはならなくなった。
仕事を選ぼうとしていた。
仕事を選んでなんかいられなくなった。
しかし、なんだかそこで自由に近づいた気がしたのもたしかだ。


ただ、誰もがそんな価値観の変遷をたどるわけもないし、無理矢理にそう矯正すべきことでもないのかしれない。

なにしろ、そんな価値観の矯正は、表題のような状況以前であって、現実の問題は価値観とかなんとか言ってられない、事後のことだ。そこに、価値観や人生観を持ち込んでも解決にならない。

しかし、生活保護中に妊娠する人たちの状況はそれぞれであって、それぞれの状況に応じて対処するほかない。

生活保護のような問題は価値観や人生観や感情論を巻き込みやすい。

つまり、そういった要素を排除した部分で機能する制度を想像するほかない。
あるいは、どのような価値観を持ちこんでもかまわない制度を、と言い換えることもできるだろうか。


唐突に、ドラクエを考えてみる。

わたしは、ドラクエは7までしかやったことがないが、やりこむタイプのプレーヤーだった。

「はい」と「いいえ」があれば、両方の分岐ストーリーを辿らなければ気がすまず、製作者が意図しない展開を試みようとした。

例えば、ドラクエ4。トルネコ編では所持金の半減を防ぐ金庫が手に入るが、それを次章以降で使用しようと入手を後回しにしてみたら、溶けて使えなくなっていたりとか。
製作者、考えているなー、と思った。


何が言いたいかというと、制度という世界の囲いがあるのなら、その囲いの限界を試したらいい。もちろん、ヒトという囲いのキワを超えることは倫理の外なので論外。社会という器をひいひい言わせてみるべく生きればいい。

非道徳なことを言ってしまってるようでいやな気分だが。


人々がそのような生き方をすることのメリットをひねりだすならば、それは政治的な熟議に通じるということだろうか。

制度の限界について、わたしたちは意識せざるを得なくなる。
社会的弱者は限界まで保護されることにまい進し、スネを食われる者は財産の保有に躍起になる。
血なまぐさいまでの闘争。
デモごっこじゃすまない。

でも、無理だろう。

お金の流れなど現状の実際のところはどうなっているかわからないが、生活保護受給者が過去最高、といっても、既得権益者の天下りがどうのといっても、なんとなく日々は回っている。

なんとなくだ。

みなが意識的に価値観を持ってそれを実行することは不可能だと思う。

弱者であることを印籠にしてサバイバルしようとしても、たいていは、弱者である、ということそれ自体にその人自身が飲まれてしまうのではないか。

怠惰をむさぼるべく、病を演じる。そのためには、病むまでの過程、物語が必要になる。

あの時こういうことがあって、こういう心の傷を負い、そしてこうなりました。

病を、トラウマを、事後的に得るために、過去をねつ造する。
望んだ自堕落で自由な日々は、ねつ造された過去からの暗い光に照らされて、暗澹としたものになるだろう。


信用に足るのは、意識ではなく、無意識ではないか。

意識的で、儀式的な討論やデモではなく、無意識的な欲望をすくい上げてくれるもの。

それは政治的な場ではなく、無意識の鼻歌を音楽界にメジャーデビューさせてくれるような強力で透明なテクノロジーのようなものではないか。

「生活保護 妊娠」

制度の限界を試している事例だと感じた。


参考文献:「一般思想2.0」東浩紀(講談社)


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熟女 内田春菊 ファザーファッカー

普段テレビはあまり見ないのだが、先日ケーブルテレビの音楽番組を垂れ流そうとテレビをつけると、内田春菊が映った。

もう相当昔、スキャンダラスな調子で発表された小説「ファザーファッカー」の著者だ。
当時はうぶな小説読みだったので完全に自伝、私小説として読んだ。

タイトル通りの物語で、つまり、父に犯される。

「ちょっとつついてみる」

たしかこんな台詞を養父は吐く。

他に覚えている内容としては、処女喪失をポンと栓が抜ける、みたいな感覚描写していたことや、その相手が立派なモノをもっていたとか、産院の病室で植物になんとなく乳をかけたら枯れて自尊心が傷ついた、という描写。

基本的に性的で、エネルギー感があり、しかし、どこか強烈な受動性が魅力的な小説だったように思う。
受動性というのは、受け身というよりも、世界に開かれているというか、この世の不条理をまるのまま飲み込んでしまう器、という感じだろうか。

というか上記の記憶も果たしてファザーファッカーのものだったか自信がないが、それらはすべて女性作家の作品の記憶だ。
それは、桜井亜美の「イノセントワールド」だったかもしれないし、あるいは田口ランディの「コンセント」かもしれない。

壊れた、あるいは、形骸化した父性と、それに敏感に反応した女性性、というのは、ある時はファザーファッカーのような優れた作品として、あるときは、「援助交際」のような先鋭的な社会現象として発現する。

たぶん、ファザーファッカーも援助交際も同年代の産物だと思う。

あれから20年近くが経過しようとしている。

ファザーファッカーの著者は熟女となり、ファザーファックチルドレンたちは成人する頃かもしれない。

ファザーたちはどこで何をしているのか知らない。

援助交際女子高生たちは母となったのだろうか。

援助交際女子高生に相手にされなかった同級生男子は何をしているのだろうか。

そういえば、「イノセントワールド」のアミに「父」「はおらず(精子バンクによって生まれている)、「兄」は知的障害があり、そこには、売春と兄との関係がある。
そういえば、「コンセント」の「兄」は引きこもって死んでしまった。

「ファザーファッカー」(1993)
「イノセントワールド」(1996)
「コンセント」(2000)

だからといって、世代論に意味はない。

テレビは老いた内田春菊を映すだけだ。



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